個人の幸せと会社の幸せ

前回のタイトルに関連して、
個人の幸せと、会社の幸せについて考えてみた。

例えば・・・
「モノを作って、それを誰かに使ってもらい、喜んでもらえることが嬉しい!」
「誰かに必要とされて、その要望に応えてあげることが楽しいんだよね〜。」
「自分の活動がきっかけで、他の誰かが何か新しいことにチャレンジしてくれたら、嬉しい。」
これらは、個人における1つの幸せだと思う。

また、会社も法人という人格を持つ「人」であり、個人と同様に、幸せの形を持っている。
それが、ビジョンだったりミッションと定義されていたりするものだと思う。

この幸せという言うのは、人格が違えば100%完全一致することはないが、
目指す幸せが近い個人や組織に寄り添って、私たちは行動をしていく。

しかし、
幸せというものは、非常に見失われやすいものなのではないかと思う。


ここでは、就活生と、企業を例に、
個人が組織に属した場合の、両者の幸せが良くない方向に行ってしまう場合を体系的に考えてみようと思う。

ある就活生

1.初めての就職
就活生は、自分がどのようなことをしたいか。
どんな風に働くことが、自分にとって幸せかイメージする。
それは、まだ正しいものかは分からないが、幸せが近いと思われる会社に身を委ねることになる。

2.こんなはずじゃ・・・?
就職をして、組織の中で、実際に働くと、
遅かれ早かれ、予想以上に楽しいと感じることや、
イメージと違い、疑問を感じることもあると思う。
あれ、なんでこうするんだろう?こうすべきだと思うのに。といったように。

3.ま、いっか!
2.の状態の疑問や問題意識を抱えながらも、なかなか口に出したり、行動が移すことが出来ないことが多い。

なぜなら、自分が未熟な存在であると自覚しているからこそ、発言できなかったり、
組織には既存の仕組みというものがあり、
叱責、賞賛、昇級、給料。
そんなものをちらつかせて、組織で評価されることに注力するように個人はマネジメントされていく。

4.あれ・・・?
組織で評価される生き方をしているうちに、
「自分がこの会社に来て、成し遂げたかったことって何だったっけ?」
「自分が最初に感じていた幸せってなんだったっけ?」
「こんなはずじゃなかった。。。」

となってしまうことがあるのだ。

ある企業

上記のスケールでは、個人が組織に翻弄されているだけに見えるかもしれないが、
実は、会社も社会というもっと大きな組織(外部環境)に翻弄されるものである。

会社にも人格があり、幸せの形があるという話はした。
会社はそれを、ミッション、ビジョンとして掲げて事業活動を行って行く訳だが、

社会から、評価されるものというのは、
・会社の知名度(CMにでてるよね!?知ってるその会社!)
・業績、株価の推移(株価上がってるよね!)

だったりする。
そういった組織が掲げている幸せとは直接関係のないところから、評価がなされることがほとんどだ。

そういった表向きな評価を
本質と見誤ってしまうと、組織の方向性そのものが見失われてしまう。

自ら勝負に出て、流れを作ったつもりが、世の中の流れに自らも巻き込まれ、
なんの魅力も幸せもない、当たり障りの無い、空っぽの人格になってしまうのだ。


もし、自分の幸せを求め、自分にしか生み出せない価値を生み出す、
という選択をしたならば、辛いことがたくさんあると思う。

なぜなら、外部環境と自分の幸せの差に疑問を抱え、悩むことがあるからだ。
しかし、その悩みから逃げてはいけないと思う。

ここから逃げてしまえば、
悶々とした問題意識の苛まれながら外部環境に対して不毛な文句を言い続けるだけのくだらない人間になってしまうだろう。

幸せというのは、自分で貫かなくてはいけないものだと思う。
なぜなら、人格が違えば、幸せも異なるからだ。自分にしか分からないからだ。

だからこそ、考え、感情の言語化を行うべきである。
このブログも1つの言語化だと思う。

言語化して、可視化することで
忘れることがないように、そして、皆から指摘してもらうことで、より考えをブラッシュアップすることも出来ると思う。共感してくれる人もいるかもしれない。

そして、言語化して自らを知った上で、疑問と向き合うことを辞めてはいけない。
違うと思ったら主張すれば良いだけで、組織に同調することや属することが目的ではない。

疑問に思ったことを押し殺して、環境に不毛な文句を言うだけの人間にはなってはいけない。
自分が何をしたくて、現状はどう違っていて、自分は何をしなくてはいけないのか。
この組み立てを、主体的に行われなくてはいけないのだと思う。


書いてみて気づいたが、2年前に読んだ
古賀洋吉さんの「会社の幸せと個人の幸せ」にめちゃくちゃインスパイアされた内容になっていた気づいた。笑