今のうちに遊んどけという理論

学生の頃、社会人の先輩から「今のうちに遊んどけ!」
というアドバイスを言われることが何度かあった。

この言葉には常々、疑問を持っていた。

社会人になると、遊ぶこと、楽しいことがなくなって、
毎日毎日が、辛いことばかり...、なんて憂鬱な世界なんだと。
そもそも、遊ぶことは、貯めたり保存できなくないかと。
先輩頭大丈夫ですか?と思っていた。


このとき私は、「遊び」とは、
誰にとっても同一の行為を示しているものだと思っていた。
楽しいということは、もちろんだが、
例えば、友達と飲みに行く、ボウリングに行く、だったり。

しかし、最近、
「遊ぶ」ということは、
皆それぞれが楽しいと感じる優先度のことであると考えるようになった。


私は、走ることが好きなので遊びで、よく走っている。
楽しくてやっている訳だが、他の人からすれば、それは苦痛であったりする。

逆に、本をたくさん読む人を私は尊敬する。
しかし、相手からすれば、それは好きで遊びでやっていたりする。


このように、人それぞれの楽しいと感じる優先度によって
「楽しい」と感じる行為は、異なるのだ。

そして、遊びの根源である「楽しい」と感じることは、
走る、野球をする、本を読む、といった行為を示すだけではなく、
その行為に及ぶ「動機」でもあると感じる。

例えば、「未知を探求することが楽しくてたまらない人」にとっては
本を読むこと、旅に出ることが遊びになりうる。

「誰かの力になることが、嬉しいと感じる人」にとっては、
友達の相談にのってあげることや、人に教えることが遊びになりうる。

すなわち、「遊び」や「楽しさ」とは、すべからく、それぞれが持つ優先度によるものだと思う。
それは、正解や不正解があるものではなく、尊いものだとも思う。

この考えから、「今のうちに遊んでおけ。」というアドバイスを言い換えるとしたら
「自分が楽しいと思うことは、何なのか知るために、いろんなことを今のうちにやってみるといいよ!」
だったり
「自分が楽しいと思うことをとことんやってみなよ!」
という言葉が、しっくりくる。

自分が何にわくわくを感じて、どういうときに力を発揮できるのか、それを知ることがもっとも大切なのではないかと思う。「遊ぶ」ように働き、「楽しみ」ながら、無限の力を発揮することが、目指す状態だと思う。

誰にだって、「自分がもの凄い力を発揮できた。すごい楽しくて、時間も忘れてしまった。」ということがあるに違いない。その感覚は、忘れてはいけないし、諦めてはいけない。


一方で、社会人になってから、その「遊ぶ」「楽しむ」という感覚を常に持つことが難しくなってしまうということも非常に分かる。でなければ、「今のうちに遊んどけ!」という人は現れない訳で。

それについては、次回纏めてみようと思う。