人の行動

人は、
なぜ→どのように→なに

といった流れで欲求を行動で満たす。

「なにを」とは、具体的な目に見える行為を表す。

「どのように」とは、欲求を満たす方法。

「なぜ」とは、上記全ての理由で、欲求そのもの、言語化することが難しい、好きという感覚。

純化した例を上げてみると

カレーが好きだから
買ってきて
食べる。

宇宙飛行士になりたいから、
必死で勉強をして
宇宙飛行士になる。

サッカーが好きだから
サッカー部に入って
サッカーをする。

とか、

しかし、
その流れが上手く回らなくなったとき、

「なにを」を変更することか

「どのように」を工夫することによって

人は、欲求を満たそうとする。

しかし、それがどうしても上手くいかなかったとき
人は、「なぜ」を諦める。

「なぜ」が、本物でないのならば、簡単に諦められるかもしれないが
それが、本物ならば
人は、そう簡単に諦められない。

しかし、「なにを」の強さに関わらず、
「どのように」「なにを」を工夫したり、粘り強くすることや、
さらには運によっても「なにを」を達成できるかどうかは

というのは個人によって、達成可能性や達成率は上下する。

よって、「なにを」が非常に強く
それ以下の手段が上手く行かず、目的が達成できないとき

人は、手段の全ての目的がなくなり、最悪の場合、生きる目的すら失う。

それを、上手く「どのように」「なにを」をさらに工夫するか、粘り強くするか
「なぜ」をきっぱり諦めることが出来るかは、それぞれ異なる。

そこで、つらくなる人、ならない人が分かれる。
その「なぜ」=目的とは、その個人にしか分からないため
その苦しみは、他人に理解されずらく共有しにくいことが多い。

だからこそ、夢を追うとは孤独であり。
達成するためには、
夢である「なぜ」を今一度、深く理解し
「どのように」「なにを」を考えなくてはならない。