私が、変えたい世界について。

私が、変えたい世界について。
とっさに書きたいと思ったので、書きます。

着想も問題意識も、私という未熟な人間の頭の中、という小さな部屋の中のものなので、外にさらして、皆さんの意見を頂ければと思います。


私は、人が幸せを感じるときとは、自分の目的を追うことが出来ているときではないかと考えています。例えば、お腹がすいたからご飯を食べるとか、あの人が好きだから一緒にいるとか。そういった、動物本能的な行為は、目的と手段がシンプルだと思います。ですが、人は賢いので、目先の1つの行為で目的を達成するものではなくて、複数の手段を組み合わせて、大きな目的を達成しようとします。


しかし、少し油断すると目先の手段を目的と勘違いしてしまいます。そして、気がついたら自分の目的が達成できていないと知る。もしかしたら、気がつくことも無く、なんのためにやってんだろ?と思いながらも合理的に後先考えて、その状況を維持し続ける。これは、人が賢いゆえに幸せを弊害していることであるとも思うのです。


ここまでの話は、もともと目的があった人が、それを見失ってしまうという、個人に問題があった結果だと思うのですが、私がもっと問題に思うのは、個人ではなく社会の仕組みそのものが、手段を目的とする形になってしまっていることがあるのではないか、ということです。


例えば、学校の成績とか、学歴というのは、それそのものが、目的ではなくて、掘り下げれば、それを手段することで、自分の目的がいつか見つかったときに、それを達成したり、自分がやりがいを感じられる形で世の中に貢献する。というスタンスが本来ならあるべき姿だと思っています。


成績のABCや学歴で一辺倒に人の優劣を決めようとする行為にも、疑問を感じます。そもそもなぜその成績になったのか?何にやりがいを感じるのか?なぜそれだけ頑張れたのか?という根源をもうもっと大切にすべきだと思うのです。成績や学歴という、画一化した表現ツール(公のものさし)を作ることで、人を比べることや、社会全体の平均学力を向上させることは出来ると思います。しかし、日本の教育で10年以上かけて学んだことを表す「学歴」というものは、それだけの長い年月をかけて作るほどの価値ある表現ツールなのだろうかと疑問に思います。


その表現ツールの中にある、学力そのものというのは、社会になっても使えないものが多いというのは、よく言われることだと思います。なぜなら、目的を持って学習(input)されたものでないから、発揮(output)できないのは、当たり前だと思います。英語10年以上学んでも英語を話せないこととかは分かりやすい例だと思います。大学での勉強も、目的のない学習は、学生側の意欲が低いだけではなく、いかに楽をして単位を取るか。という思考サイクルになるのも仕方がありません。いわゆる、いつまでたってもoutputできるinputは身に付かないのです。


私は、内輪で自分たちを格付けするだけの表現ツールを作ることが目的となりすぎてしまっているのではないかと危惧して思います。このことは、個人の幸せという視点で見てもデメリットが大きいですが、日本という組織という視点で見てもデメリットが大きいと思います。一昔前ならば、それなりの平均学力をもってそれなりの企業に入れば、日本という組織全体が、上り経済・上り調子だったので、雇用が充実していて、今までになかった画期的な家電製品も次々と現れるし、どちらかというと受動的な幸福が多かった思います。


ですが、今は違います。日本という国そのものが下り調子・下り経済で、様々な問題が叫ばれているだけでなく、新興国の勢いにも圧倒されています。そして、それらの諸外国の学生は日本の学生より遥かに優秀とも感じています。学力的なものはもとより、何より個人の目的がはっきりしていると感じます。


そんな中、私たちは、内輪で自分たちを格付けするだけの表現ツールにしがみついたままで良いのだろうかと思うのです。これは、個人の幸せが小さくなってしまうということと同時に、日本という組織の力が小さくなってしまうということにも共通するのではないのかと思うわけです。


学歴というものを、分かりやすい例として挙げたので、学生視点な話になってしまったのですが、このような経営者の話を聞いたことがあります。

「自分が世の中に対して問題に思うことを解決することで、世の中を良くしようと始めた事業だったのに、成功して周りから評価されるうちに、自分は偉くなったような気になってしまった。そして、いつしか名声や利益が目的になり、一線を退くときに、気がつけば大金持ちになっていたものの、全く幸せは感じられなくなっていた。」というものでした。

世間的に成功者と言われる立場の人でですら、手段と目的は見失うものであると感じられます。だからこそ、私は人間の幸せ、という生きることの本質を考えるときに、手段と目的の題目は切っても切れないものだと思うのです。



『この問題を解決するために、自分ができる思ったこと。』
問題を言うだけだったら、面白くないので、私がやりたいことを最後に。


私は、新しい自己表現ツールを作れないかと考えています。それは、そんな小難しいものではなく、自分のやりがいに感じている活動の「記録の蓄積」と「時間の経過」とともにその個人を視覚的に表現できるものです。


それは、自身を見失うことがないためのツールでもあり、自分を人に紹介するときに見せることができるツールでもあります。そしてそれは、人と人とを比べるものではないものです。


この一番の特徴として、時間の経過とともに記録の価値を低下させないことがあります。いわゆる、記録したものがFacebookのようなタイムラインで下へ下へと追いやられて、その記録を見ることがなくなり、いつか忘れてしまうような形のものでなく、複数の記録が時間が経過しても全く同じ価値として、一画面で視覚化します。


活動して、それを記録することを楽しくさせること。その記録の価値を未来にわたって、価値を下げさせないこと。結果として、その記録の蓄積そのものが自分の唯一無二の自己表現ツールになることを可能とし、少し世界を良くできるのではないかと考えています。